きざきの雑記

図書館と音大を往復する生活

擬態語っぽい言葉に惑わされる

 

わたしは「PUSH」と書かれたボタンを前にするとどうしても「プシュッ」と言いながら押したくなる。

英語とその意味と動作と擬態語とがその一瞬に結集することに毎度感動を覚えるし、なにより「プシュッ」の語感が小気味よい。

 

「プシュッ」

「プシュッ」

「プシュッ」

 

何度も押して、そこはかとない快感に包まれる。

わたしは少し興奮気味にボタンを押し続け、やがていつも通りの虚無感に襲われる。

その虚無感の正体はすなわち、「プルッ」問題である。

 

何が言いたいかもうお分かりだろうが、わたしは「PULL」と書かれた取っ手も「プルッ」と言いながら引きたい。「PUSH」と同等に扱ってやりたい。しかし、動作と擬態語との関係がそれを許さないのだ。

 

「PUSH」ボタンを押すたびに、その快感よりもむしろ「プルッ」問題に対するやり切れない感情の方が重くのしかかってくる。その感情はしだいに無力感へと変わり、ついには虚無感となってわたしの心に深く立ち込める。

 

 

この問題の根は深く、プリンに関してもしばしば似たような事態に陥る。

 

プリン。

ある人はプディングが訛ってそう呼ばれるに至ったと説明する。本当にそうだろうか。プリンの、あのいかにもプリンとした佇まいを前にしても同じことが言えるだろうか。

配色、絶妙な弾力、表面の滑らかさやそれゆえの光沢、すべておのれのプリンたる所以をはっきりと主張しているように思えてならない。そしてその主張は江崎グリコプッチンプリン」において頂点を極める。

 

グリコ Bigプッチンプリン160g 12個

グリコ Bigプッチンプリン160g 12個

 

 

プッチンプリンは正式にはプリンとは言えないとか、そういうことは今はどうでもいい。むしろある意味でプッチンプリンは最もプリン的であるとわたしは声を大にして言いたい。

 

百歩譲って本当にプリンがプディングの訛りだったとして、もし訛らずに日本全土にプディングが行き渡っていたらどうなるだろうか。当然プッチンプリンはプッチンプディングである。絶対に食べたくない。可愛らしい見た目の内側には邪悪が渦を巻いていそうだ。

 

プッチンプリンに限らずこの世のすべてのプリンはプディングに変換不可能である。

たとえば、ふとプリンが食べたくなってレストランでプリンを頼む。しかし出てきたのがプディングだったらどうだろう。食欲が失せるばかりかシェフを呼びつけたくなる。わたしはプディングではなくプリンを食べたいのだ、プリンひとつ作れなくてシェフが務まるか、と声を荒らげたくなる。

 

プリンはプリンという名称のもとで初めて存在が成立するのであり、他のいかなる文字郡もプリンを的確に表現することはできない。プリンならばプリンであり、同時にプリンならばプリンでもある。すなわちプリンはプリンの必要十分条件なのだ。

 

 

お分かりいただけただろうか。

プリンには、いやプリンという名称の擬態語っぽさには人を惑わす魔力がある。

 

話の軸がぶれていると感じるかもしれない。わたしもそんな気がしてきた。

とにかくひとつだけ言いたいのは、擬態語の影響力は計り知れないということ。決して擬態語を甘く見てはいけない。

 

そういうわたしはこの頃、爽健美茶の「ビチャ」部分に気をとられ始めている。