きざきの雑記

図書館と音大を往復する生活

人生で一度だけ胸ぐらをつかまれたことがある

 

わたしは人生で一度だけ胸ぐらをつかまれたことがある。

中学のとき、体育教師のK先生につかまれた。

 

K先生はガマガエルの親玉のような風貌で、口癖は「ボォォゲェェエエ!!!!」。

これは「ボケ」という罵倒語を強調したもので、遠くにいる生徒にもよく聞こえる。

定年間近だったK先生は生徒がなにかヘマするたびにかすれてくぐもった、しかし大きな声で「なにやってんだこのボォォゲェェエエ!!!!」と怒鳴っていた。

またK先生はときどきいるサ行が「th」の発音になる人で(発音記号でいうと「θ」)、そのうえ基本的には敬語で話す。

「だからあなたたちはいつまでたってもダメなんでthよ」

という風に。

 

 

わたしが胸ぐらをつかまれた日は真冬だった。

体育館の中とはいえ凍えるほど寒い。なぜ扉を開け放しているのか理解ができなかった。

準備運動を終え、いつも通り体育館の壁に沿ってランニングが始まった。この時点ではまだ先生は体育館には来ていない。

冷え性のわたしはジャージの袖に手をしまった状態で走っていた。他にも何人か同じようにしている人がいた。

何周も走るにつれ運動が不得意なわたしはしだいに意識が朦朧としはじめたが、先頭の体育係の生徒が「ラスト」と叫んだので踏ん張った。最後の1周が終わり、走り疲れた生徒たちがへなへなしながら列を組む。いつの間にか先生は来ていて、舞台に腰を掛けていた。少し不機嫌そうに見える。

 

「おい、誰が袖に手ぇ入れて走れっつった?」

 

唐突に始まった。K先生は一定以上怒ると敬語がとれる人なのだが、このときはすでに敬語がとれていた。わたしは身を硬くした。

「おい、おめぇだよ」

K先生が舞台から飛び降りわたしの方へ歩いてきた。他の生徒たちは後ずさりしてわたしと先生を円形に取り囲む。

「なんで手ぇ袖に入れて走ってんだよ」

なぜ自分だけ怒られているのかわからなかったし、そもそも手を袖に入れて走ることに対しこれほどまでに逆上する意味がわからなかった。

混乱したわたしはひとこと、

 

「癖です」

 

と言った。

どうやらこれがいけなかったらしい。とにかく怒りたい気分のK先生をさらに挑発してしまった。

K先生は勢いよくわたしのジャージの襟ぐりをつかみ、ガマガエルのような顔をぎりぎりまで近づけて私を睨んだ。

その距離、実に3センチ。

ほのかにラー油の香りがした。

 

「調子乗ってんじゃねぇぞ」

 

そう言い捨てて先生は襟をはなし、舞台前まで戻って何事もなかったかのように授業が始まった。

 

その後どうしても「癖です」が引き金になった理由がわからず、友人たちに意見を求めてみても「臭ぇです」に聞こえたんじゃないかなどと煮え切らない答えが返ってくるばかりだった。

 

 

なぜかわたしにはこういうことが多く、高校のときは数学の授業に遅刻したわたしが正直に

「友だちのお弁当を拾ってました」

と理由をはなすとこれも先生の逆上を誘った。

友人が廊下にぶちまけた弁当の中身を一緒になって拾ってあげていたというのに、褒められるどころか怒られるなんて一向に納得がいかなかった。

 

この先二度と胸ぐらをつかまれることはないと思うが、気づかずに癇や癪に障ってしまうタイプなのでわからない。

なるべく気をつけたいと思うが気をつけ方もわからない。