きざきの雑記

図書館と音大を往復する生活

羊を数えて眠れなくなる

 

このところ疲労と睡眠不足の割には寝つきが悪い。布団に横になっても30分くらいは眠れずに起きている。そしてやむをえず、羊を数える。

 

羊が1匹、羊が2匹、羊が3匹…

柵を飛び越える羊を1匹ずつ数えていく。柵の向こう側からこちら側へ飛び越えてくる羊たちはそのままわたしのもとまでやって来て体を擦り寄せながら鳴き声をあげる。よく懐いているのだ。

羊が4匹、羊が5匹、羊が6匹…

柔らかな羊毛にもまれながらそれぞれの名前と特徴を確認する。羊が7匹、この子はタロウくんだ。体が大きくて毛色がほんの少しくすんでいる。羊が8匹、この子はモモちゃん。つぶらな瞳と蹄の傷が特徴。

羊が9匹、10匹、11匹…

しだいに周りを取り囲む羊の群れは数を増し、四方から押されて体勢を崩したわたしは地面に倒れる。視界を羊に埋め尽くされ、腕や頬をペロペロとなめられ、わたしはもう羊を数えることができなくなってしまう。当然眠りにつくこともできない。

 

気を取り直して今度は柵のすぐ脇に立ち、左から右へと柵を飛び越えていく羊を横から見て数えることにする。

羊が1匹、羊が2匹…

柵を飛び越えた先にわたしがいないので飛び終わった羊たちも草を食んだりぼーっとしたりときおり無意に鳴いたりして大人しくしている。

 

18匹目はまだ幼い子羊で、なかなかうまく柵を飛び越えられない様子だった。後ろも詰まっているしカウントも滞ってしまうのでわたしは手を貸そうと歩み寄る。しかし不意に素朴な疑問が頭をよぎった。

「この柵は何のためにあるのか」

柵とは仕切りであり、ここは牧場なのだから柵は羊が逃げるのを防ぐためにあるはずだ。その柵を羊たちが簡単に飛び越えられてしまっていいのか。そもそも柵を飛び越えた羊を数えるというのも謎だ。ただそこにいる羊を数えれば全体数は把握できるではないか。少し考え始めると疑問は次々に浮かんでくる。そういえば羊の数を表すときの単位は「匹」であっているのだろうか。「頭」のほうがそれっぽくはないか。ところで羊飼いは全ての羊をきちんと判別できるのだろうか。いちいち名前とか付けるのだろうか。夏も羊毛をまとっていて暑くないのだろうか。涼しい地域にしか生息しないのだろうか。野生の羊は死ぬまで毛を伸ばし続けるのだろうか。疑問はどこまでも増殖し、眠りはいよいよ遠ざかる。

 

とはいえやはり早く寝たい。再び真剣に羊を数えようと心に決め、疑問もなるべく抑えるために柵をなくし点在する羊たちをその場で数えることにした。

1匹、2匹、3匹、4匹…

数えていくうちにどの羊をすでに数えていてどの羊がまだなのか見分けがつかなくなる。もう一度初めから数えても、羊たちが動き回るせいでやはりうまく数えられない。羊の間を縫って何度も数え直していると、その様子を近くで眺めていたペーターがとうとう見かねて指笛を吹いた。笛に反応した山羊たちはペーターのもとに集まり、その間にペーターは近くの小高い丘に登り、山羊たちをいとも簡単に数えあげてしまった。全部で48匹だそうだ。わたしはペーターの手際のよさに感心し、羊が山羊にすり替わっていることにも驚いた。

 

まだ眠りにつかないうちに羊、ではなく山羊の総数が分かってしまったことに困惑もしている。一体この先どうすればよいのだろう。いつの間にか山羊たちはペーターとともに山を下っており、わたしはひとり夕焼けに染まるアルプスの一角に取り残された。黄金の空に包まれて遠くの山が赤く燃えている。恍然として眺めているうちに赤は薄紅になり、薄紫になり、いつしか一面の青の中に山の向こうの雲だけが黄昏の輝きを残していた。それは美しい羊雲だった。羊雲がひとつ、羊雲がふたつ、羊雲が⋯⋯。

 

雲にも数を表すときの専用の単位があっただろうか。そもそも「数を表すときの単位」にもなにか名前があった気がする。わたしは枕元のスマホで検索し、雲はひとつ、ふたつの他に1片、2片と数えること、「数を表すときの単位」を助数詞と呼ぶこと、さらに単位と助数詞とは別物であることを知り、またひとつ賢くなると同時にまたひとつ眠りから遠ざかった。

 

こたつを出した

 

今日こたつを出した。

今までカーペットも敷かずヒーターもつけず、暖を取るには円柱形の電気ストーブに抱きつくしか術がなかった我が家が一気に快適になった。

 

こたつという発明は実に素晴らしい。人間を堕落させる発明は山ほどあるが、こたつは群を抜いている。なにしろなくてもたいして困らないのだ。ただただ快適を求めて発明されたのがこたつである。

 

NHKの朝のニュースに「まちかど情報室」というコーナーがある。その日のテーマにちなんだ便利なアイディアグッズを3つほど紹介してくれるというコーナー。その時点ですでにお節介なのだが、このアイディアグッズというのがどれもザ・お節介というような、なくても一切困らないものばかりである。

 

もしも今この時代にこたつという暖房器具が存在しておらず、ある朝まちかど情報室で何気なく紹介されていたら人々はどのような反応を示すだろうか。

 

さて、本日のテーマはこちら。「合わせて、快適」

訪ねたのは山田さんのお宅。寒い冬は居間でもなかなかくつろげません。そんなときに見つけたのが⋯

山田さん「これです!」

はい、こちらはちゃぶ台に羽毛布団とストーブを組み合わせて中を温かくしたもの。これならすきま風も気にせず居間でぬくぬくとくつろげますね。

「いやーこれはあったかそうですねぇ」「家に1台ほしいですよね~」

 

わたしだったら鼻で笑ってしまう。ちゃぶ台でなく部屋全体を温めればいい、あほじゃないですか、と。しかし、ヒーターやストーブにより部屋全体を温められるようになった現代においてもなおこたつの需要は衰えるところを知らない。(そりゃ多少は衰えていると思うが。)なぜか。それすなわち、おそろしく快適だからである。

 

こたつに入れば体が温まると同時に脳みそもとろけだす。やらなきゃいけないこともやらなくていいような気がしてくる。そのまま寝れば心筋梗塞で死ぬとわかっていてもそのまま寝てしまう。こたつは一種の麻薬のようにわたしたちの脳を溶かし、だらだらとした堕落の沼へ引きずり込むのだ。脳が溶けていては抵抗もままならず、ただただ快適な温もりに身を任せることしかできない。自分の力ではどうすることもできないという都合のいい状況を求めて人々はこたつを買い、組み立て、そして入るのである。

 

幼い頃、冬になりこたつが出るといつも、当時宇宙大好き少年真っ盛りだった兄とともに宇宙船ごっこをした。体を縮めて小さな宇宙船に乗り込み、閉じられた狭い空間で声を掛け合いながら複雑な機器を操作するという遊びである。

 

やがて遊びに飽きた兄がこたつを出ていくとわたしはひとりになった。外界の光や音は分厚い布団によって完全に遮断され、いつしかわたしは本当に宇宙空間を漂っていた。宇宙船の外には冷たく真っ暗な宇宙がどこまでも無限に広がっていて、しかし宇宙船の中はじんわりと温かい。

 

広大な宇宙に取り残された心細さと赤い発熱体がもたらす安心感が溶けた脳の中で混ざり合い、うとうととまどろんでいたところへ誰かの冷たい足が入ってきて、ようやく現実に戻りこたつから顔を出す。そこにはいつもの我が家がちゃんとあって、やはり安心するのである。

 

大人も子どもも脳みそを溶かされ心地よい安心感に包まれて、そんなつかの間の現実逃避があればこそ新年も頑張れるというものだ。

 

My Nose is Running

風邪をひいた。

驚くほどどうでもいいかもしれないが、わたしは今日突然風邪をひいた。最近大学での練習がやたらと忙しく、睡眠時間も十分にとれず毎日辛い思いをしていたのだが、今日ついに風邪をひいた。初めは喉が痛くなり、次に鼻水が溢れ出し、さらに今は頭がぼーっとしている。なかでも鼻水の勢いがものすごい。

 

アンサンブルの合わせの最中に鼻水が止まらなくなり、練習室に備え付けられたトイレットペーパーでその場はしのいだがその後も鼻水はとめどなく溢れ続け、いてもたってもいられなくなったわたしは最寄りのコンビニへ走った。店に入ると脇目も振らず水に流せるポケットティッシュ6パック入り(定価94円)を手にとったが、毎回数秒のうちに6パック使い切ることを思い出し箱のスコッティに変更した。箱ティッシュをひとつ買うのは少し恥ずかしかったので上にカレーパンを乗せてレジへ持っていったが、余計ばかっぽくなってしまった。ともかく会計をすませ、カレーパンは温めてもらってイートインスペースで小腹に押し込み、颯爽とコンビニを後にした。

 

ティッシュというのは、くだらない恥さえ捨てれば極めて便利である。なにしろ瞬時に片手で1枚のティッシュペーパーを引き抜くことができる。これはたまらない。この快感を味わってしまうと、もう二度とポケットティッシュには戻れなくなる。その後のレッスンにもスコッティを連れていき、先生の前で堂々と鼻をかんだ。かみたいときに自由に鼻をかめることが嬉しかった。

 

それ以来、わたしはどこに行くにもスコッティと一緒だった。練習室、トイレ、食堂。わたしがスコッティを呼べば、彼は白いたてがみをヒラヒラ揺らして応えてくれた。わたしはそのたてがみを1枚そっと抜き取り、いつでも気ままに鼻をかむことができた。わたしはスコッティを信頼していたし、スコッティもまたわたしによくなついていた。

 

ある日スコッティの様子がおかしかった。いつものような爽やかさがない。わたしは彼のトレードマークであるたてがみが見当たらないことに気づき、駆け寄って背中の穴に手を差し込んだ。ない。無限に存在するかに思えたたてがみが底を尽きていた。わたしはそこではじめて、彼が自身の役目を全うしたことに気がついた。わたしは悲しみをこらえつつ丁寧に彼を折りたたみ、紙ゴミとして葬った。

 

ティッシュを携帯することで束の間の快感を手に入れウキウキで妄想を膨らませていたわたしだが、そうしている間にも刻一刻と鼻水は垂れ下がってくる。帰りの電車では、箱ティッシュとゴミ袋を縦に平行に入れたリュックサックを脚に挟み、ティッシュを抜き取っては鼻を経由してゴミ袋に捨てるという巧みなキャッチアンドリリースにひたすら勤しんだ。向かいの座席ではわたしの美技に魅せられた女性がこちらをうっとりと見つめていた。

 

それにしても鼻水がとまらない。今日かんだ分だけでもざっと2リットルくらいはありそうだ。いったい顔のどこにこれほどの量の鼻水を貯蔵する空間があるというのか。そう思った瞬間、かすかな不安が胸をよぎった。ひょっとして、鼻水って実は脳みそなんじゃなかろうか。

 

そういえばさっきから頭がぼーっとしているし、本を読むのに疲れてツイッターを見はじめたりもした。オンラインオセロにも全然勝てなかった。脳みそが減っていると考えると全てつじつまが合う。なるほど、漫画などでおバカなキャラクターが決まって鼻水を垂らしていることにも説明がつく。あれは実は脳みそで、始終鼻から脳みそを垂らしているからバカなのだ。

 

本当に鼻水が脳みそだったらどうしよう。今までに勉強したことは全て脳に保存されているのだ。この20年間が水の泡になりかねない。それに、鼻から出た分の脳みそはちゃんとあとから生成されるだろうか。減ったままではバカになる一方だ。わたしが不安を膨らませる間にも鼻から出た脳みそはティッシュペーパーにくるまれ、みるみるうちにゴミ箱を満たしていく。

 

 

 

日に焼けた本は水色になる

 

 少し前にツイッターでこんなツイートを見かけた。

 

 

とくに一図書館職員として意見があるわけではないが、本の日焼けというのは割と深刻な問題だ。

 

わたしの働く図書館はデザインが素晴らしいとかで建築界隈では多少有名だったらしく、その昔はよく建築科の学生が見学に来たりしていたらしい(ベテランおばさま職員が言っていた)。わたしはそれも建築家目線の話だな、と感じる。なぜならこの図書館の児童書コーナーの2門の棚、つまり子ども向けの地理歴史関係の本が並ぶ棚が全面水色だからである。

 

ご存知だろうか。本は何年も日光にさらされると有無を言わさず水色になる。仕組みはわたしもよく知らないが、なんでも赤や黄色のインクは紫外線に弱く退色しやすいのだそうだ。たしかに道で古い看板や注意書きなどを見ても、重要な部分を目立つように赤で書いたがためにその部分だけ退色してしまっているということは多い。せっかくの配慮もむなしく看板は道端に突如出現する野生の穴あき問題と化している。

 

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blog.livedoor.jp

 

こういうわけで生命力の強い青および黒のインクだけが日差しの中を生き残り、したがって南の窓際に位置する児童向けの地理歴史の棚は全面水色になるのである。水色の「世界地理」、水色の「日本の歴史」、水色の「キュリー夫人」。大量のプランクトンが集まってひとつの赤潮を作り出すように、棚に敷きつめられたたくさんの背表紙がひとつの大きな水色を作り出す。

 

それはなかなか美しい水色で、わたしは仕事の合間にその窓辺へ出向いてはこっそり深呼吸をする。息を吸い込むと、かすかに潮の香りがする。耳を澄ませば遠くからは波の音が聞こえる。一面に広がる青い海。見上げれば青空には太陽が燦々と輝き、その紫外線はわたしの心にこびりついた赤や黄色をきれいに洗い流してくれる。青一色になったわたしはたくさんの水色にやさしく包まれ、やがて溶け込んで大きな水色の一部になる。目を閉じて波のまにまにたゆたいながら、いつまでもこうして揺れていたい気持ちになる。ゆらゆら、ゆらゆら。

ゆらゆら。

ゆらゆらゆらゆら。

目を覚ますとわたしを揺り起こしたおばさま職員はすでに事務室を出ていて、わたしも昼休憩の余韻を振り払うようにいそいそと午後の仕事に取りかかる。

 

 

 

トイレの注意書きが気になる

 

わたしは図書館でバイトをしているにも関わらず本のたくさんある場所に行くと便意を催すタイプの人間であるため、バイトの合間に手洗いに立つことが多い。和式便所をなるべく使いたくない生粋の平成っ子でもあるため、いつも洋式便器を備えた1階のトイレを使う。そのトイレは図書館の利用者も使うのだが、個室の壁に貼られた注意書きが毎回気になってしかたがない。そこにはこう書かれている。

 

便器に大便をつけたまま便器の外に小便をする人がいます!

 

意味不明だ。

便器に大便をつける人はいるかもしれない。便器の外に小便をするひとも、たぶんいるのだろう。両者ともおそらく悪気はない。しかし「便器に大便をつけたまま便器の外に小便をする人」、これはなにごとだろうか。

悪質だ。うっかりでは済まされないぞ。と単純に憤ることはできない。問題は、なぜ犯人を同一人物にしてしまったのか。なんの根拠があって便器に付着した大便と便器からはみ出た小便を同一人物のしわざと見なしたのか、どうしても気になってしまう。

それに、妙な言い回しが謎を深めている。「大便をつけたまま」というのは、つけたままでさえなければ「便器の外に小便を」してもいいかのように聞こえる。うっかり便器に大便をつけてしまったのなら、それを自分できちんと拭ってから便器の外に小便をしなさい。それが成熟した大人のマナーというものです。と言われている気分になる。単純な並列ではいけなかったのだろうか。「便器に大便をつけたり便器の外に小便をしたり」ではなにか不都合があったのだろうか。気になる。

 

「便器に大便をつけたまま便器の外に小便をする」の時点でだいぶ謎なのだが、そこへきて「人がいます!」と強気で来られるとこちらとしても「見たのかよ」と呟かざるを得ない。しかし本当に便器に大便をつけたまま便器の外に小便をする人がいる可能性も否定はできない。もしかしたら、悪意あるいは何らかの目的を持って意識的にトイレを汚している人が存在するのかもしれない。

 

その男、無職、43歳。便器に大便をつけたまま便器の外に小便をすることを無上の楽しみとしている。これまでに便器に大便をつけたまま便器の外に小便をしたトイレは数知れないが、その中でもこの図書館のトイレは一二を争う手応えがある。シンプルなデザイン。常に清潔を保ち隅々まで行き届いた清掃。男にとって、まさに便器に大便をつけたまま便器の外に小便をするのに持ってこいのトイレだ。男がたとえ便器に大便をつけたまま便器の外に小便をしても、次の日に見に行けば前日の惨状は見る影もなく輝きを取り戻している。 男は満足して頷く。そして再び、便器に大便をつけたまま便器の外に小便をするのだった――。

 

今思い出したのだが、図書館からほど近い市民ホールのトイレには昔から「トイレを故意につまらせる人がいます」という注意書きがしてあった。同じ市の公共施設で同じくトイレの迷惑行為とは、なにやら怪しい臭いがする。むろん便の臭いではない。

 

 

大学の売店でいなりを買った

 

昨日ずいぶん飲んだので今日はひたすら中和に勤しんだ。たくさんお茶を飲んだ。朝ごはんはお腹に入らなかったので、大学についてから売店に立ち寄った。

 

わたしの通う音大はおそらく一般的な一般大と比べて色々なものの規模が小さく、売店もこぢんまりとしている。手作り感満載の弁当やパンやおにぎりが並んでいたりする。綺麗な正三角形でビニールが開けやすくなっている市販のおにぎりも売られているのだが、おいしいのでいつも迷わず手作り感のほうを選ぶ。

 

この手作り感おにぎりの具のラインナップが素敵で、オーソドックスな梅、昆布、おかか、しゃけ、高菜などの他に唐揚げ、たまご、肉みそ、なすみそ、プルコギ、ちゃっきりなど多数取り揃えており、日によってメンバーが変わる。一時などはウニのおにぎりもあり、ウニ好きのわたしは見るや否や飛びつくように購入した。おいしかった。しかし不人気だったのかウニはここ半年ほどラインナップから外されている。

 

今日もひと通りおにぎりを眺め、山ごぼうに手を伸ばしかけてあるものが目にとまった。様々なおにぎりの列の一番端に、「いなり」が並んでいたのだ。

 

1つずつ透明なビニールで包装されたいなり寿司が縦一列に整列していた。

不思議な光景だった。さもおにぎりの一種のような顔をして、おいなりが並んでいる。これを買う人がいるのだろうか。

見れば見るほど滑稽で、大学の売店でけなげに並んでいるおいなりさんたちが可愛かった。

ついにわたしはいなりを2つつかみあげ、レジへ持っていった。

 

いなりを2つください。

おいなりさん2つですね~、ピッ、ピッ、180円になりまーす。はい、ちょうどお預かりでーす。ありがとうございました~。

 

あたりまえだが普通に買えた。

いなり、おいしかった。

 

 

 

督促回数という烙印

 

わたしは曲がりなりにも図書館の職員だ。

日々返却された本のバーコードを巧みに読みとり、他館回送資料があれば足元のボックスに放り込み、貸出期限を過ぎていれば利用者に

「次回はもう少しお早めにお返しください」

などと伝える。

 

利用者には様々なタイプがあり、期限を1日過ぎただけでもものすごく申し訳なさそうに謝ってくれる人もいれば、1ヶ月以上も過ぎているのに無言で去っていく人もいる。図書館での態度にその人の人格が表れるというが、全くその通りだ。

 

しかしわたしに無作法な利用者を非難する資格はない。

なぜならわたしは、同じ図書館から過去6回の督促を受けているからだ。

 

わたしの通っている図書館では返却の期限を2ヶ月過ぎると利用者に督促を行っている。電話をかけたりハガキを出したりして早く返却するよう促すのだ。

 

当時は本当に期限内に返せなかった。どんなに頑張ってもだめだった。なにか自分の手には負えない巨大な力によって返却を阻まれていたような気さえする。

 

休日、図書館に本を返しに行こうと家を出る。坂を下って茶畑を抜け、大きな道路を渡ると図書館はもう目の前に見える。小学生のわたしはついに本を返せるということが感慨深く、一歩一歩を踏みしめて自動ドアへ向かう。すると突然自転車が猛スピードで走ってきて、わたしが慌ててよけると自転車も同じ側によける。わたしが反対側によけると同時に自転車も反対側によける。わたしがよけるのをやめると自転車もやめる。自転車のカゴがもうすぐそこまで来ていてわたしの脚はすくみ、もはやこれまで、と目をつぶる。一瞬の静寂。何も起こらない。おや?  と思い目を開けるとそこは自分の部屋のベッドの上で、わたしは横になり布団をかぶっている。

 

 

あまりにも毎回返却が遅く、ハガキを受け取ってからもなかなか返しに行かなかったりしたのでブラックリストに名前が載っていることはほぼ確実だった。罪悪感からしだいに図書館に行きづらくなり、中学校に上がってからは部活が忙しく図書館を利用する機会はほとんどなくなった。そのまま高校でも部活に精を出し、昨年バイトを始めるまでは図書館の存在すら忘れていた。

 

バイトに通うようになってから本を借りて帰ることはあるが、またすぐにシフトが入っているため返却が遅れることはまずない。わたしは更生し、こうして図書館で日々真剣に働くことによってかつての過ちが少しずつ償われていくような気がする。返却カウンターでバーコードを読みとり、貸出カウンターでバーコードを読みとり、利用者登録を受けては本を配架する。汗も拭かずに必死に働き、時折天を見上げては「神様、わたしは頑張っていますよ」と訴える。

 

それでも職員用の端末で自分のデータを開くと必ず、赤い文字で

 

督促回数:6回

 

と表示されている。

昔の囚人たちに押された烙印のように、この文字がわたしのデータ上から消えることはないのだ。